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証明写真の思い出エッセイ集2018年度

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証明写真の思い出エッセイ集 2018年度

主催者挨拶

今回のエッセイ募集では、全国から百十三名という多くの応募をいただきまして、心より感謝申し上げます。
写真のたなかやは、今年で創業七十七年になる、神奈川県川崎市高津区にある写真館です。東京・赤坂御門から伊勢原の大山阿夫利神社を結ぶ大山街道に面しております。記念写真、証明写真、学校アルバム制作、ビデオ撮影、出張撮影等をしております。
証明写真も多数撮影させていただいていますが、お客様はそれぞれいろいろな思いで、証明写真を撮影に見えます。その思いを文章に表していただきたいと思い、今回の企画を立てました。
作品を読ませていただくと、証明写真にまつわる、さまざまな思い、出来事が見え、皆様の力作に感謝しながら読ませていただきました。
証明写真は、光の当て方、姿勢、服装、髪型、表情、背景色等でいろいろに変化します。
たった一枚の小さな証明写真ですが、人の一生を左右する宝物になります。
これからもお客様の最高の表情を映し出すように努力してまいります。、
このエッセイ作品集には、上位入賞者八名の作品を掲載しました。
審査委員長のNPO法人高津文化協会 鈴木穆会長様のご協力、ありがとうございました。
審査評も書いていただきましたので、掲載してございます。
みなさまには、これからも写真館をご愛顧していただければ幸せです。
(株)写真のたなかや 代表取締役  鈴木克明

以下入選者作品

1.田端彩花(千葉県木更津市)
2.本田 好美(大阪府寝屋川市)
3.打浪 紘一(大阪府高槻市)
4.久保 隆(神奈川県横浜市)
5.伊藤 契(大阪府富田林市)
6.匿名希望(福井県福井市)
7.上田 貴子(大阪府狭山市)
8.小池 都司(東京都清瀬市)

1.推薦作品
運命の分かれ道の第一歩
田端 彩花(千葉県木更津市)

最近、知ったことがある。それは、母のお財布に入っている一枚の証明写真。その証明写真は母の証明写真でもなく、父の証明写真でもない、私が初めて就職活動のために約十年前に撮影した証明写真だったのだ。
その証明写真を撮影した頃、私は英文学科の短大に在学中だった。英文学科に入学したからには女子の憧れでもある「航空会社」に就職してみたかった。しかし、人気の花形職業である「航空会社」への就職はかなりの狭き門。あまり自信のなかった私は「航空会社」への就職は叶わないだろうと思っていた。だからせめて「航空会社」で働いているような容姿で証明写真を残しておきたいと思いついたのだ。いろいろ探した甲斐があり「航空業界就職活動用証明写真」を撮影してくれる写真スタジオを発見した。その写真スタジオでは「航空業界」に合ったお化粧と髪型にセットしてくれるのだ。プロのヘアメイクの仕上がりに笑みがこぼれたのは言うまでもない。私は「航空会社」に就職した気分になり、ルンルンで撮影に臨んだ。カメラマンに立ち姿勢も指示してもらい、見るからに「航空会社のスタッフ」なりきっていた。撮影後にそのまま証明写真を貰うなり、記入しておいたエントリーシートに満足げに貼ったのだ。私は証明写真を撮影しただけでなぜか満足しきっていた。「航空会社」を落ちたとしてもこの証明写真を残せたから悔いはないと思える程に素晴らしい出来映えだったからだろう。
エントリーシートを送付してから二週間後、自宅に一次選考通過のハガキが届いたのだ。あの狭き門だった一次選考通過のハガキが届くなんて思ってもおらず、何度も何度も見返していた。その後、筆記試験、役員面接を経て、あのエントリーシートを送付してから一か月が経った頃、自宅に「内定通知ハガキ」が届いたのだ。あの憧れと夢の職業である「航空会社」から遂に内定を頂けたのだ。その「内定通知ハガキ」を一番に手にしたのが母だった。母は私以上にこの内定を喜んでくれていたようだ。
あの証明写真を撮影した約十年前、一枚をエントリーシートに貼り、一枚を母に渡していたのだ。「お母さん、これで航空会社に就職したみたいでしょ。」と軽い気持ちで渡した証明写真。その一枚を母は今もずっと大切にお財布に入れていたようだ。その証明写真を久しぶりに見た私は懐かしくてクスクスと笑ってしまった。私は憧れの「航空会社」に就職して、職場の同期だった彼と職場結婚をし、現在は一児の母となった。あの証明写真がなければ「航空会社」に就職もしてもいなかっただろう。そして、就職していなかったとしたら、現在の夫にも出逢っていなかっただろう。たった一枚の証明写真で人生はこうも変わるのだから、証明写真は運命の分かれ道の第一歩を担うのだろう。

2. 特選作品
命の証し (いのちのあかし )
本田 好美(大阪府寝屋川市)

たった一枚の証明写真がその人の生きている証しとなって扱われたことを、私は夫から聞かされたことがある。
世界中を震撼させた3・11東日本大震災。警察官である夫は発災と同時に宮城県へと人命救助のために派遣された。激しい余震の中で生存者を捜索したが、目にするのは多くの御遺体ばかりで、一人でも多く生存者を救出するぞと誓った夫の意気込みはやがて絶望へと変わり、御遺体安置所で多くの遺族と変わり果てた家族の亡骸と接する立会いばかりを続けることになっていったという。
発災直後、家族の安否に走り回る人々のために「御遺体確認情報」という壁新聞のようなものがどの安置所にも掲示され、「70歳くらい。男性。黒色ジャンパー。ポケットの白色ハンカチ在中」などとご遺体の特徴が書かれた文字を真剣に読む人々で溢れていた。

「おまわりさん。この写真。うちの子だったら。同じ写真なんですけど・・・・・」
夫の前で6枚切りのうちの1枚が欠けた証明写真を手にした女性が目に涙を溜めていた。

安否情報の「高校生くらいの女性。ジャケットに証明写真らしい写真在中」との特徴を読んだのだという.御遺体は検死を終えた後一人一人、納棺されている。夫が亡骸を確認すると確かに証明写真らしい紙片がポケットに入っており、母親に借りた残りの写真と照合すると、顔も切り取った跡もピタリと一致した。夫はここからが一番辛かったという。
「証明写真だから娘さんは普通の表情です。だけどね。お母さん。できる限り、娘さんが笑っていたり、怒っていたりしていた顔を思い出してから確認してくださいね。」
夫は精一杯の言葉で母親に声をかけ、母親と一緒に娘さんとの対面に立ち会ったという。母親の号泣は数十分間続き、夫は傍らでそっと寄り添っていたが、その翌日に亡骸を引き取りに来た母親は、夫にこういった。
「この子が写真、持っててくれたから、家に連れて帰れます。本当にご苦労様でした。」
証明写真の役割は、その人物そのものを証明するために公的機関などに提出することが本来の目的なのだろうけれど、私はこの話を夫から聞いた時、人が人として生きてきた証のために役立つこともあるのだと思った。
証明写真は命の証し。普通の表情の後ろに、懸命に生きた証しが写っている。

3.特選作品
サイダーの泡がはじけると
打浪 紘一(大阪府高槻市)

初めて証明写真を撮ったのはいつのことだったか明確な記憶はない。公的な書類に添付するために必要になったのは、やはり運転免許証を最初に取得した時だと思う。今から40年も昔になるが、私は家の近くの古い商店街にある写真館へ証明写真を撮ってもらうために出かけて行った。
多くの写真館と同じように、その店の入り口にはショーウィンドウがあり、文金高島田の花嫁さんや家族の集合写真が飾られていた。だが、それらの写真はいつも同じで、うっすらと埃をかぶったままだった。扉を押して中に入ると、薄暗い室内に、黒い布を被せたカメラの脚立がもう何年も使われていないかのように立っていた。「ごめんください」と声をかけると、奥からもじゃもじゃの白髪頭をしたこの店の主人らしいお爺さんが顔を出した。「証明写真をお願いしたいんですけど」と言うと、「ちょっと待ってね。今用意するからね」と言って奥に向って「おーい、お客さんや」と声をかけた。すると、奥から丸まげを結ったお婆さんがニコニコしながら、「は
いはい、いらっしゃい」と言って現れた。どうやらこの写真館は、この老夫婦でやっているらしかった。

それから私は撮影室に案内された。レンズに向って姿勢を正して座るように言われたが、ちゃんとしているつもりなのに「あごを引いて」とか「右肩を下げて」とか注文が入る。その度ごとにお婆ちゃんがちょこちょこ傍へ来ては、私の首をぐいと曲げたり、服の襟を直したり、世話を焼くのだ。
ようやく、3回ほどシャッターを押して、私の撮影は終わったが、その間お婆ちゃんは照明係もつとめていた。帰ろうとしたら、お婆ちゃんがプクプク泡立つサイダーの入ったコップを出してくれた。照明で喉の乾いていた私はそれを一気に飲み干した。お爺さんが「写真は1週間後にできるから取りにおいで。ええ写真が出来てるやろ」といい、預かり証をくれた。1週間後、あんなに入念に撮ってもらったのだから、さぞきれいに写っているだろうと期待して写真を取り出した私は大きな失望感に襲われた。確かに証明写真らしく、私の顔の特徴が鮮明に写っていたが、それは私が自分の顔で気に入らない、ほお骨や、出っ歯やギョロ目などがあまりにも強調されているものだった。でもしょうがない。その後の数年、私は本人確認が必要な度に、その写真の免許証を提示する羽目になった。撮影から1年後お爺ちゃんが亡くなりその写真館は閉館になった。
今でも夏になりサイダーを飲むと、私はあの写真館を懐かしく思い出す。

4.入選作品
久保 隆(神奈川県横浜市)

昭和48年4月、私は前月に大学を卒業。しかしこの時点で無職。ある企業には内定をもらっていたが、マスコミ志望だったため辞退。そして志望先の企業は結果不合格。
同級生はみんな就職していて、私だけが素浪人になった。ただ売り手市場で景気も良く、いずれ何とかなるだろうと安易に考えていた。
しかし1ヵ月が過ぎ、5月の連休も終わろうとしている頃になると、流石に考えなければと大学の就職課に行ってみた。しかし思うような企業からの求人はなく、ここで初めて現実を知らされた。
ある日新聞の求人欄を見ていると、損害保険会社の求人があった。当時、今は当たり前の対人・対物事故の示談交渉を、日本の損保会社は行っておらず、翌昭和49年4月から実施ということで、4月の定期採用に限らず、事故査定要員を大量に募集していた時だった。
勤務時間が9時から16時半、初任給も高く、とりあえず入社して、来年再度マスコミに挑戦しようと考えた。
就職課に行き相談すると、君はマスコミ志望ではないのかと言われたが、親が心配しているので就職を優先したいと言って、学長だか学部長の推薦状をもらった。
その当時、履歴書の他に身上書もあり、第一印象が極めて大事と言われていたので、町で評判の写真館で撮影してもらった。大切な就職試験用なので、少しでも見栄えがいいようにして欲しいと、図々しくもお願いした。出来上がった写真は、私なりに満足できるもので、慎重に履歴書に貼付した。
会社の人事部を訪問し、履歴書他書類を提出、後日採用試験に臨んだ。終了後試験官から、今回の倍率は20数倍と聞かされた。筆記試験は頑張ったつもりだが、それを聞いて私は、これは駄目だなと思った。しかし数日後何と採用が決まった。
面接の時、人事担当役員から、「君の履歴書の写真、いいね。何か輝いているように見えたな」と言われた。まさかそれだけで採用されたとは思わないが、書類選考時点でいい印象を持ってもらったことは事実だろう。そして配属先は、まさかの広報室。仕事が面白く、再度マスコミ挑戦の思いは消し飛んでしまい、日々仕事に熱中した。
それから40年以上に亘り仕事を続け、65歳の年度末に無事サラリーマン生活を終えることができた。

5.入選作品
伊藤 契(大阪府富田林市)

レジに買い物かごを置いた。持ち手から店員さんに視線を向けると、商品ではなく、僕を見ていた。それも顔にご飯粒でも付いているように、じーっと。わざわざ確認するのも恥ずかしいから、ただ見つめ返した。普段よりも多くの瞬きをしながら。
店員さんがやっと目線を落としたかと思うと、また、僕を見てきた。そして、買い物かごの中身を。僕を。何度も、繰り返す。二度見までなら許せる。でも、これは何度見だ。五度見、いや、六度見。
「お客様、あのー、年齢確認を出来るものを何かお持ちでしょうか?」
「……」
まただ。またこれだ。いつもされる。居酒屋に行こうと、コンビニに行こうと、年齢確認ばかりだ。年齢確認の強化は良いことだが、これで何百回目だろうか。
「あのー」
店員さんの声を聞きながら、後ろを振り返った。耳にイヤホンをつけ、激しく貧乏ゆすりをしている男が並んでいる。早く済ませないと、文句を言われそうな気がする。
僕はまた店員さんの顔を見た。そして、財布を。
「お客様? 何か年齢確認が出来るものを……」
僕は鼻から空気をおもいっきり吸い込み、肩を落とした。ため息ってレベルじゃない。ため息と深呼吸を掛け合わせてから、奥歯を噛みしめる歯ぎしりを足したくらいのものだ。
財布の中から免許証を取り出し、わざと裏面に向けてから渡した。店員さんは免許証をひっくり返し、生年月日を見ると、レジ横に視線を移す。一度、頷いてから僕に免許証を返そうとしてきた。その時、突然、また僕の顔を見てきた。免許証を。僕を。免許証を。僕を。これは確実に数えた。狂いもない、三度見だ。
「あ、ありがとうございます」
免許証をわざわざ裏面に向けて返してきた。僕はそのまま財布の中にしまった。
「258円が1点、108円が1点」
店員さんはレジ打ちを始め、会計が終わると、レジ袋を両手でしっかりと渡してきた。
コンビニを出る時、ガラスドアに僕が映った。今の僕。そう、今ここにいる僕。黒髪、眉の隠れる長さの前髪、色白。
免許証を見せるたびに、誰もが僕を三度見する。見た目と年齢のギャップにじゃない。証明写真と実物の差にじゃない。あまりにも変化しすぎた風貌に。金髪、オールバック、日焼けした肌。面影の欠片もない、まるで別人のような写真。
家に帰ったら、若気の至りをつまみに乾杯しよう。失敗は誰にでもある。次から気をつければ良い。免許の更新日には、絶対に、真面目な格好をして行こう。

6.入選作品
匿名希望(福井県福井市)

職業は幼いときからの夢がかなって教師に。充実した教師生活を送り、数年後に結婚。教師を続けながら円満な家庭を築く。という将来設計をし、その通りの人生を途中まで歩んできました。やりがいのある恵まれた教師生活。29歳に結婚。ただ、旦那の仕事の都合上、私は教師を辞め旦那の勤務地に引越し。そこからです。一気に今まで描いてきた設計図からはみ出していったのは。
主婦になりましたが1年で離婚。お金も仕事もなし。一人になった私は働かなくてはと思い、履歴書作成のための証明写真を撮りに行きました。こんなはずじゃなかったと不満たらたらで。店員さんは私の雰囲気を気にも留めず終始にこにこして写真を撮ると「良いですね」と嬉しそうに言います。私のこの状況も知らないで、と思い思わず「どこが」とぶっきらぼうに答えると店員さんはにこにこしながら「良い表情してます」と言うのです。写真を優しく眺めながら店員さ
んはゆっくりと続けます。
「写真って平面ですけどね、実は奥行きがあるんですよ。その人の心の大きさが奥行きとなって写るんです。あなたの奥行きは深い。へへへ。『何でも来い!』という心の奥行きを感じます。間違いない」と断言。思わず「なんじゃそりゃ」と言いながら私までつられて「へへへ」と笑ってしまいました。帰り道、証明写真を見ながら、「何でも来い!何で
も来い!」と繰り返し呟き、行きとは違う足取りの軽さを感じたのを覚えています。
現在私は惣菜屋の調理員として働き、今年で6年目となります。調理の仕事は初めてで戸惑うことも多く、帰宅後涙がぽろぽろ止まらないときもありましたが、それでも続けてこられたのは、店員さんの言葉「何でも来い!という心の奥行き」のおかげです。昨年は調理師の資格も取ることができ、忙しい毎日ですが、お客さんの「美味しかった」の一言に幸せとやりがいを感じています。
あのとき、店員さんの根拠のない励ましが私は妙に心に響き、嬉しくて仕方がありませんでした。根拠なんていらない。証明写真を履歴書に丁寧に貼るとますます活力が漲り「まだまだ頑張れそうだ」と心の底から自信が湧いたのです。
かつての自分が思い描いていた設計図とは随分と違うものになりましたが、現在の設計図もなかなかのお気に入りです。そしてこれからどんなことが起ころうとも私はまた新たに設計図を書き直し、書き足しして進んでいけることでしょう。「さあ、何でも来い!!」

7 入選作品
上田 貴子(大阪府狭山市)

大学の夏季休暇を利用して、合宿免許を取りに行った。授業の合間に遊べるほどの余裕はあまりなさそうなので、レジャーなどは一切考慮せず、一番安かった宮崎県を選んだ。大阪~宮崎間の往復のフェリー代も含まれていて、とてもお得。初めての九州で、初めての一人旅。とてもわくわくして出かけ、フェリーに乗り、一晩を過ごした。翌朝、志布志湾に到着すると教習所の方がバスで迎えに来てくれていた。一時間ほど乗っていたのだろうか、教習所に着いたのは、その日が教習開始日の人の中で最後だった。慌ただしく導かれて、手続きや適性検査が始まり、最後に流れ作業で大勢の教習生の証明写真が撮られた。言われるがままに、次々にこなし、鏡で自分の顔をチェックする間もなく。
各自に異なる時間割表が配られ、早速、午後から授業が始まった。夕方には実車の授業がある。
初めての車の運転に少し緊張の面持ちで、待合室で教官が来るのを待っていた。教官がやってきた。名前を呼ばれ、教官の所へ行くと、「えっ?!きみ?」と驚かれ、教習生情報の載ったファイルと私を交互に見ながら、改めて名前を確認された。「なんだ~、よかった~」と言われ、よく分からないが、私も少し安心し、車へと向かった。運転席につき、一通り説明を受けた。その
後、「実はさ・・・。」と教官が話し始めた。
私の証明写真があまりにひどく、ヤンキーと間違えられたらしい。フェリーで一晩過ごした後のショートカットの髪は、少し寝癖がついたままで、乱れているのに加え、目が半開き、赤いチェックの半袖のブラウスがとても派手でラフな格好に見える。自分でも大笑いしてしまった。私の担任教官のМ教官は自衛隊出身の厳しい教官で、大型車や厳しい教習が必要だと思われる人を多く受けもつらしい。実車授業の一時間目の教官は、「М先生のクラスだからどんな人かと思ってきたら拍子抜けしちゃったよ。それにしても、この写真ひどいよね。こんなにかわいい子だし、このブラウスも素敵じゃない。全然違うね。М先生に教えてあげよー。」と待合室に現れた時とは打って変わって、ずっと和やかな雰囲気で教習を開始できた。
その後も実車授業の度に、いろんな教官に「替え玉かと思ったよ」と言われたり、「なにがあったの?」と言われたりしたものの、楽しく教習を始めるきっかけとなりとてもラッキーだった。М教官は、確かに厳格な雰囲気の漂う教官ではあったけれど、とても優しく丁寧に教えていただくことができた。失敗の証明写真がもたらしてくれた幸運は、いい思い出をたくさん作ってくれたものの、写真一枚の出来栄えが、その後を左右する結果につながる可能性を考えさせられる。証明写真を撮るときは一瞬たりとも油断できないことをいつも思い出させてくれる楽しい思い出である。

8 入選作品
『笑顔の証明写真』
小池 都司(東京都清瀬市)

今から5年前、就職活動のために私は近所の写真屋で履歴書用の証明写真を撮った。
買ったばかりのスーツを着て、普段はしないコンタクトをつけて、気合いを入れて写真屋に向かった。しかし、いざ写真を撮るとなると非常に緊張してしまい、カメラマンに何度も「もう少し笑顔で!」と言われてしまった。私としては笑顔のつもりなのだが、カメラマンは何度も「もっともっと!」と笑顔を求めてきた。ジョジョに苛立ちを感じて、そこまで言うのであればと、私は大げさなくらいに歯を見せて満面の笑みを見せた。「そう!そのまま!」とカメラマンに言われて、私としては不自然なくらいの笑顔で写真を数枚撮ってもらった。
写真をもらってみると、私が普段は絶対にしないような笑顔をしており、本当にこれで大丈夫なのだろうかと一抹の不安を覚えた。しかし、撮り直すのももったいないと思い、私はその写真を履歴書に使い、第一志望の会社に提出した。

その後、一次面接、二次面接と通過し、最終面接までたどり着いたその日、私は人事部長と1対1
で面接をすることになった。しかし、不思議なことに、私が部屋に入るなり人事部長は笑いをこ
らえたような様子だった。私が志望動機や自己PRを話している最中も、人事部長は私の顔をなるべく見ないように話を聞いていたのだ。
何かまずいことをしてしまったのだろうかと不安を覚えつつ、数日間面接の結果を待っていたところ、一本の電話がきた。採用通知だった。その時は、外だというのに思わずその場でガッツポーズをして跳びはねてしまった。それほどまでに嬉しかったのだ。
4月を迎え、入社式の時私は人事部長と直接話しをする機会があったため、あの最終面接の時になぜ笑いをこらえていたのか、その疑問を投げかけた。すると部長は、「君の履歴書の写真が可笑しくて、笑いをこらえていたのだ。」と答えたのだ。聞くところ、私のあの満面の笑みが人事部長の印象に強く残るほど面白かったらしく、就活生の中でずば抜けて『可笑しい学生』と思われていたようだった。何とも気の抜けた真実ではあったが、人事部長が続けて言ったことを今でも覚えている。
「だからこそ、あれだけの笑顔ができる君に来てほしいと思えた。」
あの満面の笑みを写した写真のおかげで、私は今の会社や素晴らしい人事の方に会えたのだ。
あの証明写真が私の会社人生をスタートさせてくれた。
ちなみに、今でも証明写真の時には満面の笑みで撮ってもらう。次の出会いがあることを信じて。

審査委員 長 NPO法人 高津区文化協会会長 鈴木穆様

『写真のたなかや』社長、鈴木克明・寄里枝両氏が開催された「二〇一八証明写真の思い出エッセイ・コンテスト」開催おめでとうございます。全国各地から、本当に数多くの応募があったこと、地元民として、誇り高く、うれしく思います。私は、応募者の多さに、先ず吃驚しました。考えてみれば、証明写真は、誰でも、一度や二度、誰でも苦い経験を持っているからです。逆に言えば、こういう問題を出す写真館は、自信たっぷりという事になりますが、写真のたなかやこそ、実力日本一の写真館なのです。とりわけ、うわさに聞いていた「客室乗務員を志願する人が、写真のたなかやで、応募写真撮ると合格する」というジンクスが生きている実例を見せられ、本当に驚嘆したことがありました。
「写真のたなかや」には、就職活動を希望する人達の為に、証明写真用のスタジオと、ヘアメイクアーティストもいるという事実を知らされ二度吃嘆、改めて「写真のたなかや」の実力のすごさと全国規模で、エッセイ・コンテストを開催出来る実力の背景と凄さと偉さを、
思い知らされたのである。
その理由は、鈴木克明氏の写真大学で習得した技術と現場で習得した研究の豊富さと、熱心さで、出る杭は打たれるの例えを承知の上で、打って出る施策を、積極的に展開し、「写真のたなかや」をもっともっと売り込み、不動の地位を築きあげる迄、様々な施策を展開する質陽がある
と思って居る。
皆様方の、お力添えを得て、ますます「写真のたなかや」が一層発展することを、願っている。
「写真のたなかや」の良さは、寄里枝夫人の存在で、この人の才覚と知恵と知識、何よりも機転が、抜群で、それが、写真館の特色になっていて、素晴らしいと思う。
どうか、何時までも、素晴らしい写真館であり続けられるよう、祈っております。

「写真のたなかや」とは?

1941年(昭和19年)に鈴木孝が現在地に創業しました。
鈴木孝は麻布中学から慶応大学経済学部を卒業しましたが、当時はやっていた結核を病み、写真に興味を持ち、写真を勉強し、当時日本一と言われた東条写真館のガラス乾板の修整作業を手伝い、「たなかや写真館」を開業しました。
当時は建物北東側の二階から1階までガラス張りで採光し、写場(しゃじょう)と呼んでいた内側壁面全面が白い漆喰で塗られたスタジオでした。
孝の療養中の20年間妻マサが一人で写真館を守っていました。
息子の克明が東京写真短期大学を卒業後、店に入り母と一緒に仕事をしました。克明が結婚後、助産師だった妻の寄里枝が加わり「写真のたなかや」の仕事が拡大してゆきました。
仕事の内容も、七五三、成人式、結婚、お宮参り、家族写真等の記念写真や受験、就職、各種証明写真、ビデオ撮影、学校アルバム制作等、広がってきました。
本店も4階建てに改築し、道路隔てた前にはスタジオ「トレビ」を新築し、その隣には社員食堂「アンジェ」があります。
マスコミにも多く取り上げられ、最近では、日本テレビの「ニュースエブリ」テレビ東京の「もやもやさまーず」「アド街ック天国」NHKテレビの「プロフェッショナル・仕事の流儀」、BS
TBSの「吉田類の酒場放浪記」。、「朝日新聞」「東京・中日新聞」等に取り上げられ、NHK連
続ドラマ『バカボンのパパよりバカなパパ』のロケ現場にもなりました。
長男の重登、長女の浩永も仕事に加わり、従業員数も20名を超え、現在に至っています。
衣装もお宮参りお掛け着から、七五三、成人、結婚等のドレス五〇〇着揃えてあります。美容室もあり、専門の美容師さんが常駐している撮影のプロ集団です。
克明は川崎市から写真業界初の川崎マイスターに認定されています。
写真のたなかやは多摩川から歩いて10分ほどの所に位置し旧街道の大山街道に面しています。
アクセスは、田園都市線「高津」駅から徒歩3~4分。東京・渋谷から電車で20分ほどです。
平成30年の今年、創業77年になります。これからもよろしくお願いいたします。

〒213-0001神奈川県川崎市高津区溝口4―6―28
電話044―822―3466
FAX044―811―9872
株式会社写真のたなかや
鈴木克明

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